なんと、今年初めての戯言。 自身の立場を揺るがす出来事が続きすぎたここ数年・・・。 うかつにコラムを書こうものなら、どうしても沈んでいく自らの文体に凹んでました。 そろそろ大丈夫かな、と。
ここ数年、度々手にとって読むことが多いのは、開高 健氏の釣りに関わるエッセイ集である。 もちろん芥川賞作家としての彼の小説も数冊読ませてもらったが、『釣り』との距離をおいた彼の文章、文体には痛々しいものを感じざるを得ない。 受賞作である『裸の王様』を読みこんだ後はその痛さ(?)がずっしりと響き、今でもその余韻は消えない。 僕が敬愛する作家の一人です。
彼の本分はルポ・ライター、コピー・ライター、評論家のような気がする。 あるいは、史学者であろうかと。
そんな彼がスウェーデンのアブ(ABU)社ゲストハウスに招待された頃に認めたエッセイから、書き出させてもらいます。
これまでに度々『ルアー(疑似餌)』という言葉が登場したが、正体をよく説明しなかった。 今後もしばしば登場するはずなので今回はその説明にあてることとしよう。
ふつう魚を釣るには生餌(いきえ)を使う。 たとえばマスを例にとると、ミミズ、イクラ、サナギ、ブドウ虫、小魚、さまざまな川虫、草むらのイナゴ、クモ、コオロギなどである。 マグロの切身もいいそうである。 マスは華麗だが貪欲で旺盛な魚だから、少し誇張していうと、三匹のミミズがあったら、三匹のマスが釣れる。 チロルの牧場を流れる小川でドイツ人の釣師から、ミミズの数だけマスを釣ってごらんといって泥だらけの缶をもらったことがあるが、慎重にやってみるとほぼそのとおりのことが起った。 マスがたくさんいる川にミミズを持っていくのはまるで幼児虐殺にでかけるようなものであると、身にしみて教えられた。 それで、制限サイズ以上のを三匹だけ夕食に持って帰り、あとはみな逃がしてやった。
「ヴィーダー・ゼーン(さようなら)!」
というと、マスは体を一度ひねり、うつろだが澄んだ眼でまじまじと水を見つめる。 つぎの瞬間、夕陽の射す川のなかで低い声が、
「シャイセレ(くそ)!」
と走った。
「ライフ」誌にでた説によると、ミミズで魚を釣って、しかも他人(ひと)に穴場をおしえようとしない釣師のことを”土(ど)ン百姓”というのだそうである。 帰国してからそう教えられて痛い思いをしたので、さっそく毛針(フライ)と毛針竿を買いに京橋の五十嵐老の店へ出かけた。 そのときよく思い出してみると、私にミミズをくれたドイツ人の釣師は私とおなじ宿に泊まっていたが、彼のことを宿の主人のヴァルトマンおやじは、低い声で、”ただの釣師”と説明していたようである。 私がしたことは、だから、”くそ”で、”土(ど)ン百姓”で、ただのことだったわけである。
(ここで”土(ど)ン百姓”というのはミミズでマス釣りをする男のことである。 農民のことをそういってののしっているのではないのである。 くれぐれも御注意のほどを)
自然の分泌物に自然がとびつくのはあたりまえである。 ただのことである。 いくら釣師が仕掛けや合せの呼吸に心塊をそそいだところで餌という決定的な一点では石器時代である。 知恵もなく、工夫もなく、また、あまりに容易である。 そもそも芸術とは反自然行為ではなかったか。 釣りを芸術と感じたいのなら自然主義を断固としてしりぞけねばならない。 釣りを生業とする漁師なら話は別だが、遊びで釣りをする”芸術家”なら、もっと次元の高い、むつかしい道に愉しみを発見しなければならない。 少なくとも魚と知恵くらべ、だましあいをして勝敗を競うようでないといけないのではあるまいか。
そう感じた一派が編み出したのがルアー・フィッシングである。 つまり人口の疑似餌による釣りである。 日本にも昔から毛ばり、角(つの)、”化け”の釣法があり、みなルアー・フィッシングである。 いまさらカタカナで書くことはないのである。 ただ西洋ではわが国よりもはるかに広く、深く、多彩にこの精神にうちこむ精神が徹底していて、淡水魚、海水魚を問わず、肉食魚はすべて疑似餌で、ということになっている。
日本に公認の毛ばりが何種類あるか知らないが、アチラにはマスの毛ばりだけで、それも公認のものだけで、ざっと二千種から三千種あろうかという。 これに一人一人の釣師がめいめい手製して使っているものを入れたら、目のまわるような数字となるだろう。
・・・・・中略・・・・・
投げるのを”キャスティング”、魚のいる場所へうちこむのを”プレゼンテーション”という。 これがむつかしい。 水を”読む”こと。 そこが問題なのである。 政治、女、名著、駄著、上役の顔色、若者の顔色、税務署員の顔色、財布の薄さなどを読むことにつくづく疲れて、人は竿を片手に遁走を企てるのだが、岸へくればくるでまた水を読まねばならない。
・・・・・中略・・・・・
キラキラ光る物。 ひらひらする物。 音を発する物。 水に皺(しわ)を作る物。 ことに、逃げる物。 たとえそれらが餌の小魚に似ていなくても、魚はこうした物に弱いらしい。 機嫌がよければ反射的にとびついてしまう習性がある。 小魚の形をしたものにとびつくのは食慾からだが、どうも私の観察するところでは、魚はそれ以外の衝動もいくつかあるのではないかしらという気がする。 奇ッ怪至極のルアーを追って突進してくる、疑いながら最後までついてくる、どうしてもとびつかないのでためしに色のちがうのにかえたら一発で食いついたりする、そういう姿態を観察していると、それが異物にたいする攻撃心なのか、警戒心なのか、それともネコが毛糸玉にじゃれつくような遊びごころなのか、にわかに判別はつきかねるのだけれど、釣師である私は、食慾以外の衝動で魚と知恵くらべしてみごとに勝っちゃったと思って、ミミズのときより何倍もの愉しみで胴震いがでるのである。
数を争うとなると、どうしてもミミズにルアーは勝てないが、老いて巨大になり、苦い記憶と経験で神経質になった、百戦錬磨(すれっからし)でものぐさな大物が、ミミズには見向きもしないのにひょっとすると操作ひとつでルアーなら誘いだせたりするのである。 水しぶきたてた格闘の果てに、そういうリアル・ランカー(すごい大物)を岸によせてくるときのよろこびとなると、ちょっとたとえようがない。
毛ばりを手製する夜がもっとも純潔な愉しみとされている。 しかし、毛ばりでなくても夜ふけに道具箱をひらくのは愉しいことである。 静かな夜ふけの小さな灯のしたで精巧な玩具を一つ一つとりあげ、魚の歯跡の傷をつぶさに点検したり、眼で吸ったりする。 思いぞ屈してこころ滅びる夜は、油研石をとりだしてきて、針をせっせと研ぐ。 三方から研いで槍のように鋭くするのである。 ときどき爪にあててひっかかるかすべるかをためして、また研ぎつづける。 この傷はあの淵だった。 帰りがけになにげなく投げたらきたのだった。 やっぱり素直にやるのがいいのかな、などと考えたりする。 耳のうしろに水音のせせらぎがひびくようである。 女の腿の奥へわけいっていくようだった、両岸から毛深い森の迫ってくる渓流のたたずまいがよみがえってくる。 室内のどこかすぐ手近にあの荒野の川原がひろがるようである。 水しぶきをたてて跳躍した赤銅色に輝くキング・サーモンの巨体が簿明のなかに出没する。 それは二回きりしか跳ねなかったのに最初の跳躍が何度も何度も、疲れることなく、くりかえされるのである。 あてどなく電圧が高まってきて、やがて私は室いっぱいにひろがり、はびこる。
・・・・・中略・・・・・
いったい人間は魚を釣っているのであるか。 それとも魚に釣られているのであるか。 ある瞬間、深い朦朧のひろがることがあった。 遊びを追っていくと、きっと、どこかで、底なしの穴を覗かせられる。
・・・・・・・・長々と引用しました。 中途半端に省略することは彼の文章を汚す気がして、できませんでした。 ご容赦を願います。
『・・・よせてくるときのよろこびとなると、ちょっとたとえようがない。』・・・・・このへんが、開高氏らしいのでないかと思います。 彼は真の(?)小説家には向いてませんよね。(笑)
『”数釣り”を楽しいと思うのは、小学生低学年レベル。 高学年、中学生ともなると、よりデカイやつを狙うようになる。 それが釣師の文化レベルだ。 様々な釣り大会におけるトーナメンターやバス・プロなども、しょせんはこのレベルなのだ。 もちろん技術的には凄いし尊敬に値するが、あくまでその釣師としての文化レベルはその程度にすぎない。 ”日本記録”、”世界記録”に拘ることも、同レベルだ。
高校生から大学生レベルになると、いかに面白く釣りができるかに志向が定まってくる。 大人レベルに至ると、まわりに迷惑をかけることなく、仲間内、グループを超えて心から楽しい釣りに没頭できる環境、状況つくりに思いをめぐらすことができるようになる。』
こういうことは、なかなか書けないものである。
こういうことを書いてしまうのが、現在の僕である。 アブナイ、アブナイ。。。
言い訳じみたことをあえて書かせてもらう。
”子供の釣り”、”童心に帰る釣り”、”狩猟本能に帰する釣り”、”漁師ごっこ”、・・・・・その全てを、僕は、けして否定しない。
まわりに迷惑をおよぼさなければ、”イイジャナイカ”というのが僕のスタンスである。
他人に気分悪い思いをさせたら、当然のように気分悪い仕打ちが帰ってくる。 それだけだ。
僕がこれまで、そしてこれからも楽しく釣りと接していけるのは、『気分良く、面白く釣りをする』ことに心根を注いできたからだと、考える。
そんな図々しさを取り戻しつつある、今日、この頃。
原工房の変態工房長はやっぱりタフで、シブトイやつのようです。(笑)